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    <pubDate>Sun, 11 Oct 2026 11:50:55 GMT</pubDate>
    <title>イタリア自動車雑貨店 FromItaly</title>
    <link>https://carclejp.live/UserBlog.aspx?UserID=2004&amp;TopicCD=1001</link>
    <description> イタリア自動車雑貨店公認ログ太田氏が書くエッセイ「FromItaly」のログをこちらに残して行きます。お楽しみに！</description>
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    <item>
      <title>From Italy 2012.5 Part2</title>
      <author>
      </author>
      <description>&amp;nbsp;　外国のクルマに乗るということはその国の文化の一端に触れることである。なんちゃって大上段に振りかぶって偉そうに始めたけれど、なにもそんなに大げさなことではない。文化などという曖昧な概念を持ってこなくてもいい。つまりクルマはその出自たる国のある部分を鮮やかに表出する工業製品に違いない、ということだ。フェラーリとポルシェを並べて、たとえば両方の内装をばらしてみればよくわかる。ちょっと前までのフェラーリは、ドアの内張りの中からワイングラス片手に、ナポリあたりの陽気なシニョールがひょっこり出てきそうな出来映えだったし、一方ポルシェはちっぽけなパーツひとつにもMADE IN GERMANYの刻印が眉間の皺みたいに、でもどこか誇らしげにそこにある。
&lt;div&gt;　イタ雑にあった古いパンダなんて、ルーフの内張りを剥がしたら、ルーフ裏に電気配線が梱包テープで適当に留められていて、しかもそのテープには57x7+12みたいな算数の計算式がマジックで走り書きされていた。何の計算じゃい、これは？　確か答えは書かれていなかったと思う。まあ、とにかく、ことほどさように、僕らが直観的に、そして類型的に捉える「イタリア」満載でパンダは日本にやって来ていたのだった。そして、こういう経験をひとつふたつと重ねていけば、当然のように興味がわく。行ってみたくなる。どこに？　いや、それは&amp;hellip;&amp;hellip;、もちろんイタリアです。ということで、実際にはるばるイタリアまで足を運んだイタ雑のお客様もたくさんいる。愛憎相半ばするイタ車の故郷はどうなっているのか？の旅である。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　イタ車の今を知りたいなら、昨年リニューアルオープンした『トリノ自動車博物館』に行けば手っ取り早い。リニューアル前に比べて劇的に良くなった。どれほど良いかといえば、イタリア人がこれをやったとはにわかに信じられないほどに良いのである。あとは、イタリア（製品）の常で、最初は良くてその後どんどんテキトーになる、クルマでいえば後期型より初期型、という法則が適用されないことを祈るばかりだ。とにかく、新しい『トリノ自動車博物館』はいい。展示に情感溢れるストーリーがあって、古いクルマから新しいクルマを辿る順路にしたがって進んでいくと、「そうかぁ、こういう時代だったんだ」と感慨を覚えること間違いない。フォーミュラカーの展示を前にすれば「イタ車ってやっぱり凄いなぁ」とも思うはずだ。僕などこの博物館に何度か足を運んだけど、一度たりとも梱包テープや計算式のことは思い出さなかった。それはともかく、そこで僕がいちばん感動したのは地図なのである。これを見て今現在と比べてみれば、イタ車の故郷の現状が手に取るようにわかる。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　その地図は博物館のひとつのコーナーの床一面、下からバックライトで照らし出されて展開されている。その上を歩いて足元の地図を眺めていく仕掛けだ。航空写真から起こしたその古いトリノの地図には、FIATやLANCIAやABARTHはもちろん、ちっぽけなカロッツェリアまで、かつてトリノにあった自動車関連の施設がすべて網羅されている。CONREROもALEMANOもある。初めて目にするようなカロッツェリアの名もある。とにかくトリノという大きな街のいたるところが「自動車」なのである。そしてそのほとんど、おそらく90%以上の施設が今はもう存在しない。そういう現実を博物館の大きな地図が教えてくれる。イタ雑のお客さんならその場で愕然とするだろう。イタ車の故郷を辿り歩くセンチメンタルな旅人なら、「今」を嘆き悲嘆の涙で視界をちょっぴり曇らせるかもしれない。イタリア人の手になるものとは思えないほどに緻密で整然とした博物館の展示は、皮肉なことに今現在のイタリア自動車産業の窮状を、新聞のどんな経済記事よりも的確に僕らに伝えてくるのである。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　だが、しかし、と僕はまだここで逆説の接続詞を選択したい。そしてアメリカ映画『草原の輝き』（エリア・カザン監督）の一シーンを思い出そう。主演のナタリー・ウッド扮する女学生が、教室で教師から指名されワーズワースの詩を朗読する。その一節。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style="font-family: 'ＭＳ ゴシック'; "&gt;&lt;em&gt;草が輝き　花が香る&lt;br /&gt;
&lt;br type="_moz" /&gt;
&lt;/em&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style="font-family: 'ＭＳ ゴシック'; "&gt;&lt;em&gt;あの時代が再び戻ってくることはない&lt;/em&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style="font-family: 'ＭＳ ゴシック'; "&gt;&lt;em&gt;&lt;br /&gt;
でも嘆くのはよそう&lt;/em&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style="font-family: 'ＭＳ ゴシック'; "&gt;&lt;em&gt;&lt;br /&gt;
残されたものの中に、生きる力を見つけよう&lt;/em&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;どっこいまだ生きてますぜ、と言わんばかりのクルマが、イタリアからきっと出てくるはずだ。それは豪華、流麗なサルーンでなくても、パワーウォーズへの参戦を目指すスポーツカーでなくても、そんなもんじゃなくったって全然OKなのだ。いつか人生の第３コーナー辺りでホロッとしてしまうような、そして、生きてることもそうそう悪いもんじゃないと思わせてくれるような、そんなクルマを創れるのは馬鹿みたいに情の深いイタリア人だけだと、僕はイタ雑を始めた時とおんなじ気持でまだ信じている。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div style="text-align: right; "&gt;イタリア自動車雑貨店　太田一義&lt;/div&gt;</description>
      <category>未分類</category>
      <pubDate>Tue, 15 May 2012 18:57:54 GMT</pubDate>
      <link>https://carclejp.live/UserBlogComment.aspx?UserID=2004&amp;TopicCD=1001&amp;ArticleNo=15</link>
      <guid>2004_15</guid>
    </item>
    <item>
      <title>2012.5 Part1</title>
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      </author>
      <description>&amp;nbsp;　ファビオは時間厳守の青年である。彼のエピソードは前にも書いた。７時に家に来て、と言えば、その５分前には玄関先に現れ、７時になる瞬間をそこで待っている。そして時間ピッタリにチャイムを鳴らす。一般的には自閉症に分類される行動様式を確かにいくつか持っているけれど、これは彼の個性である。コンピュータを友として21年間の大半を自室で過ごしてきたこの青年を、太陽の下に引っ張り出してきたのは、幼馴染み同い年のジョルジョだ。今では復活祭の食事会なんかにもファビオは来られるようになった。ワインでいい機嫌になった近所のおじさんたちから話しかけられると、気を付けみたいな直立不動で、ちょっとぎこちない笑顔を頬に貼りつけて受け答えしている。そんな様子にジョルジョが少し離れたところからチラッと目をやる。
&lt;div&gt;　ジョルジョは大学で栄養学を専攻、「食」を学んでいる。今年卒業だ。大きくなったね。初めて会った時はまだ小学校に上がる前だった。今、こうしてファビオを思いやるジョルジョもいろんなことを経験してきた。10年ほど前、婚約中の姉のシモーナが筋無力症を発症した。心配のあまり一晩で髪が真っ白になってしまった父親のジュゼッペ。病院に泊まり込み、献身的に看病にあたった婚約者のルカ。長い入院生活を経て、シモーナに後遺症は残ったけれど、ルカは何一つ変わることなく、ふたりは病気を乗り越えて結婚した。まだ少年だったジョルジョが、そこで胸に刻みこんだことがあるのかないのか、そんなことは僕にはわからない。ただ、誰もが多かれ少なかれ心や身体にハンディキャップを抱え生きているということ、ジョルジョはパン屋への道筋にさえ無数にころがっていそうなそんな小石を、涙が出そうなほど美しく橙色に染まったいつかの夕焼けの空の下、見つけたのかもしれない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　最近は欧州危機の渦中でイタリア経済が低調、しかも増税の追い討ちもあって、なんとなくイタリア人がすべてに投げやりになっているように見えることがある。いや、実際にそうなのだ。イタ雑関連の取引の上でも、数量やカラー、そして価格の間違いが頻発している。梱包が雑になったのも目に余る。そんなこんなで僕の中に巣食う「イタリア人なんて！」モードも全開で、坊主憎けりゃ袈裟まで&amp;hellip;&amp;hellip;状態が続いている。話は逸れるけど、１ユーロ/110円前後の円高の今でさえ、アウトストラーダのサービスエリアで給油すると、リッター200円を超える。ガソリン価格が高騰すると、他の製品の価格や輸送費なども確実に上がる。タッケーなあ、とブツブツ言いながら暮らしている。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　そんなイライラが募る中でも、ファビオやジョルジョの姿を目にすると束の間ホンワカとした気持になれる。なんていうのだろうか、例えばジョルジョのファビオに対する距離の取り方なんてほんとに絶妙だ。始終連絡を取り合うわけでもなく、会ったところでベタベタとくっついているわけでもない。それでも見て見ぬふりの素知らぬ優しさはまぎれもなく友達のそれだ。パソコンでトラぶったジョルジョが電話をすると、ファビオはいそいそとやって来る。そして今日も約束した時間ピッタリになるのを玄関の前で待って、そこでおもむろに正しい姿勢でチャイムを鳴らす。いいぞ、ファビオ。頑張れ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　人には誰も、抱えて歩いて行かなければならない荷物がある。捉えどころのない孤独でさえ大きな荷物だ。空身で何の屈託もなく、なんていうのはあり得ない話だろう。それをお互いが了解し、そこにささやかな想像力が働きさえすれば、関係を繋ぐものは速射砲のように繰り出される電子メールでもなく、そこに踊るストックワードの羅列ってことでもないだろう。繋がるっていうのはそんなことじゃない。長針が文字盤の12の位置に重なる時に、時々ファビオを思い出せること、こっちの方がずっといい。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div style="text-align: right; "&gt;イタリア自動車雑貨店　太田一義&lt;/div&gt;</description>
      <category>未分類</category>
      <pubDate>Tue, 01 May 2012 15:20:28 GMT</pubDate>
      <link>https://carclejp.live/UserBlogComment.aspx?UserID=2004&amp;TopicCD=1001&amp;ArticleNo=14</link>
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    </item>
    <item>
      <title>2012.4 Part2</title>
      <author>
      </author>
      <description>&amp;nbsp;　アイスクリーム屋でバニラだけを持ち帰りで750グラム。溶けちゃうから早く家に帰らなくちゃ。店を出ると制服姿の男が近づいて来て、藪から棒に言った。「今買ったもの、レシートはあるか？」財務警察官だった。いわゆる普通の警察官とは違って、イタリアでは主に経済関連の犯罪を担当する。制服もパトカーも普通の警察のものとは違う。何年か前に一度、クルマを止められ、積んでいた荷物をすべて路上に広げられて検閲を受けたことがある。密輸だの薬物だのに関連して、外国人に対してはことさら厳しい。でも今日はアイスクリームだ。ポケットにも怪しいものはニエンテだ。
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　750グラムのバニラと一緒にさっき手提げ袋に入れられたレシートを財務警察官に見せた。13.90ユーロ。彼はレシートにさっと目を走らせて「オーケー」と言って、ゆっくりと僕から離れていった。やれやれである。これが2012年のイタリアの生の現実だ。アイスクリーム屋の客がレシートを持っているかどうかをチェックするのは、巨額の赤字財政に苦しむ政府が、商店主による脱税に網を掛けようとする国家政策の最前線なのだ。もしあのアイスクリーム屋の親父がレシートを出していなかったなら、翌日には財務警察の抜き打ち調査を受ける。売上除外、それによる脱税。イタリア政府、税収欲しさに総動員態勢である。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　この前、ナポリで財務警察による一斉調査があったんだよ。知り合いのベッペさんは何か愉快なことでも話すような口調で言った。そしたらね、調査した店の90％がきちんとレジを打ってない。まったくフィレンツェから南なんてロクなもんじゃないよ。そう言って笑っていた。僕も笑った。僕は既にこんな話を聞いて心底驚くような柔らかな心根を失っている。イタリアなんていい加減の集合体だとさえ思っている。1ユーロが170円を超えてイタリア人が妙に自信満々だった数年前でさえ、こんなテキトーな国の通貨の前に日本円がひれ伏している状況がどうしても納得いかなかった。北イタリアの人々は、南イタリアなんてアフリカと一緒になれと極論を言い放っているけれど、それじゃあアフリカ大陸の国々に失礼というもんだろう。僕の実感としては北も南も五十歩百歩である。レシートチェックはヨーロッパの先進国と言われる国の一つで、今実際に行われている施策なのだ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　こういうことを言い始めると必ず出てくるのは、民族だの文化だの宗教だの、そういう共同体としてのドラスティックな差異にすべてまとめて収斂する論調である。確かにラテン民族とはそういうものだと言ってしまえばそれでなんとなく納得してしまう。だけど、はたしてそうだろうか。僕はそれ以上に「教育」の力が大きいと、ここトリノでの日常生活の折々に感じている。彼らが並ばないのは何故か、落とした財布がまず100％戻ってこないのは何故か、狭い歩道で横いっぱいに広がっておしゃべりに興じているのは何故か、犬の糞と紙くずがそこかしこに点在する街の風景は何故か、雪の日に家の周りの道路の雪かきを誰一人としてやらないのは何故か。大義名分としての耳ざわりの良いヒューマニズムに寄りかかっているのは、ちょっと乱暴かもしれないけど、自分さえ良ければいいという醜悪な無数の個人主義である。その個人主義が今日も陽気に笑っている。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　教育は学校だけの問題ではない。子供の頃、母親からうんざりするほど言われたものだ。明日着るものを枕元に置け。食事の前に手を洗え。外から帰って来たら風呂場で足を洗え、と。ここトリノでの生活で、イタリア人の知り合いが食事の前に手を洗っているのを見たことがない。家でもレストランでも見たことがない。ウェットティッシュも見たことがない。箸を使うわけでもなく、手でじかにパンをつかんで食べるのに。こういうのはラテン民族云々とは全く関係がないだろう。教育とか躾とかそういう座標軸での話だ。収入を正直に申告する背景には、納税が国民の義務だというお題目の前に、正直であるということの尊さを説く教育が不可欠だ。僕はそう思うけど、これは一片の綺麗事に過ぎないだろうか。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　イタリア自動車雑貨店の開店前から数えて、イタリアという国と関わりを持って18年になる。何のツテもなく、一人の知り合いもなくやって来た一人の日本人を、イタリアの人々はほんとうに良くしてくれた。イタリア自動車雑貨店を盛りたててくれたのは、まぎれもなくトリノやマラネッロの人々である。日本で同種の店がフォロワーとしてイタ雑を追ってきても、僕らだけのイタリアがイタ雑の背後にあることをささやかな誇りとして、ランニングシューズのストラップをギュッと締め直してきた。イタリア自動車雑貨店は常にイタリアにいた。でも、と僕は今思うのだ。苦境に喘ぎ、シーンと静まり返ったピニンファリーナの社屋の前に立ち、でも、と僕は思うのだ。このままでいいのか、イタリア。当たり前のことを愚直に練り直して進んできたVWの足音が、その確かな一歩一歩の足取りが、もう間近に聞こえてくるよ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div style="text-align: right; "&gt;イタリア自動車雑貨店　太田一義&lt;/div&gt;</description>
      <category>未分類</category>
      <pubDate>Mon, 16 Apr 2012 15:03:08 GMT</pubDate>
      <link>https://carclejp.live/UserBlogComment.aspx?UserID=2004&amp;TopicCD=1001&amp;ArticleNo=13</link>
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    </item>
    <item>
      <title>2012.4 Part1</title>
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      </author>
      <description>&lt;p&gt;　久し振りにクルマで箱根を目指した。夜明け直後の早朝、自宅から首都高用賀インター、そこから東名を使って厚木に向かう。途中、海老名サービスエリアでカレーパンとクリームパンという我ながら妙な取り合わせの朝食を摂った。子供のころから大好物なのだ。両方とも美味しかったけど、それにしてもサービスエリアがあまりにも美しくなったことにはビックリした。今ってこんななんだ。高速のサービスエリアなんて何年振りだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　厚木からは小田原厚木道路を行く。かつて自動車雑誌『NAVI』在職時代、ここでは頻繁に覆面パトカーと遭遇したものだ。超安全運転のトヨタプレミオの後ろで自制する。飛ばさなくたって運転が楽しいと思えるようになったのはやっぱり年のせいか。いや、運転が本当に楽しい。重いクラッチ、硬いギアシフト、そして狭い車内に満ちるエンジン音やギアノイズ、そのそれぞれが自動車を操る原初的な歓びを再確認させてくれる。６段マニュアルミッションなんてもはや前世紀の遺物みたいなものかもしれないけど、今日連れ出してきた僕のとっておきの秘密兵器にはこれが似合う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　ウェブでチェックしてきた芦ノ湖近くのレストランで早めの昼食、そして渋滞を避けるためにすぐに東京に戻る、というのがその日の計画だった。早朝出発の甲斐あって、予想した通り午前８時前には芦ノ湖に到着してしまった。そのまま仙石原方面、そしてさらに山中湖を目指すことにした。ワインディングではリアがブレークするのが怖くて、自分の腕ではそこそこのペースに抑えざるをえなかったけど、それでもインにスパッと切れ込んでいくコーナリングマナーには胸のすく思いがした。運転が楽しい。ハンドルを握りながら、クルマっていいなぁとつくづく思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　そう、僕にはクルマのない生活なんて考えられない。今よりもうちょっと元気だった頃、真夜中近くに終わるイタ雑の仕事帰りに、小遣いを削って借りた納屋みたいなボロガレージに閉じこもってひとり、ただそこにあるクルマを眺めていたことがよくあった。運転しなくてもクルマは楽しいものなのだ。眺めて、ちょっと触って、磨いて、洗って、あそこをこうしてああしてと夢想して、そしてまたただぼんやり眺めてと、クルマが傍にある生活というのはこんなにも楽しい。ダメなクルマに少しずつ手を入れて、それを自分が思う完璧な状態に仕上げていく過程の、その時間のなんと幸せなことだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　ハイブリットのクルマや電気自動車がマーケットシェアを広げ、そこにはまた別の自動車趣味みたいなものが生まれるのかもしれないけど、僕はまだ当分この原初的な歓びに満ちた旧世代のクルマとの生活に、それにピリオドを打つことは出来そうもない。何と格闘するのを想定して作られたのかはわからないけれど、まあとりあえずは「戦うクルマ」と称されるやる気満々の１台、我がラストサムライに慰撫される日々はまだもう少し続いていきそうだ。そうそう、山中湖から戻って入った芦ノ湖畔のレストランで食べたピザ、いつもトリノで食べてるのと結構近くて望外に美味しかった。ただしエスプレッソは、ちょっと雑味ありかなで70点。でもGOODでした。ごちそうさま。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p style="text-align: right"&gt;イタリア自動車雑貨店　太田一義 &lt;br /&gt;
&amp;nbsp;&lt;/p&gt;</description>
      <category>未分類</category>
      <pubDate>Mon, 02 Apr 2012 09:49:52 GMT</pubDate>
      <link>https://carclejp.live/UserBlogComment.aspx?UserID=2004&amp;TopicCD=1001&amp;ArticleNo=12</link>
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      <title>2012.3 Part2</title>
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      </author>
      <description>&amp;nbsp;　 東京都内のとある大学病院の正面玄関は午前5時に開く。僕が外来でそこを訪れる時は、いつも午前5時40分頃に到着するのだが、その時には既に数人の先客がいる。どこから何時にやって来るのだろうか。顔ぶれはいつも同じだ。仕切り役のような50代後半とおぼしき女性が、中高年の男性患者に向かって大きな声で教訓じみた話をしているのもいつものことだ。
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　5時55分に警備員の初老の男が受付札を持ってやって来る。この受付札は『再来機』を呼ばれる受診受付機の前に並ぶ順番を明確にするためのもので、当然その日大学病院の待合室に最初にやって来た人間が一番の札をもらう。先客の数人がトップグループでその次が僕ということになる。その5時55分にはおよそ20名前後の患者が広い待合室に点在しているのだが、ここで心配になるのは受付札をもらう順番を各自が正確に覚えているのかということである。自分が誰の次かなんて、はじめのうちに来た人ならともかく、先に来ている患者が多くなればもうわかりようがない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　だが、これが大丈夫なのである。例の仕切り役のおばさんがここで登場するのだ。誰の後ろに並べばいいのかと右往左往している集団に向かって、「あなたはこの人の次。そしてあなたは&amp;hellip;&amp;hellip;6番よ」とテキパキと指示を飛ばす。誰も彼女の指示に異議を唱えることもなく、すぐに美しい一列の行列が出来上がる。そう、彼女は広い待合室に入ってきた人間を逐一記憶しているのだ。しょぼくれた中高年の男たちを前に教訓を垂れながら、目はしっかりと人の出入りを捕捉している。恐るべし、である。ちなみに一番札を貰うのは当然いつも彼女だ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　この受付札を手にしてしまえば、7時に『再来機』が稼働を開始するまではフリータイムである。最初に待合室にいた集団に受付札を渡すと、警備員は残りの受付札を演台のような小さな机の上に置いて本来の業務に戻っていく。それ以降待合室にやってくる人は自分でそれを取っていって下さい、という仕組みだ。原始的だけど仕切り役がしっかりしているのでとても円滑に回るシステムなのだ。でも、そもそも、午前5時から病院にやって来るというのは、いや、来なければならないのはちょっと尋常ではない。診察開始は一番早い診療科でも午前8時からなのだ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　その理由は「検査」である。それも午前8時に始まる血液検査の受診がこの早朝バトルのそもそもの原因なのだ。その日、医師の診察を受ける前に血液検査が指定されていると、それをまず最初に済ませておかなければならない。その結果をもとにその日の診療が行われるからだ。7時に『再来機』が動きだす。受付札を『再来機』の脇に立つ係員に渡して、診察券を『再来機』につっこむとその日の受診票が出力されてくる。今度はそれを持って4階の血液検査室に向かって患者たちが殺到するのだ。血液検査の順番が早ければ、医師の診察が予約時間より遅くなることもないからだ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　やれやれである。みなとても病人とは思えないほどに朝から元気だ。病気なのに元気なのだ。でも、この早朝の運動会のようなハレの時間が過ぎてしまうと、病院に満ちるテンションは目に見えて下がっていく。患者たちは自分の抱える病とそれぞれ向き合い、他者との関係性を断った時間の中に没入していくのだ。血液検査によって示される数値を想像して怯え、医師の口をついて出るかもしれない言葉を打ち消しては一瞬の安堵に浸る。診療科の待合室の静けさの内には、果てることのない患者たちの声なき呟きが渦巻いているように僕には思えるのだ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　そんなことをぼんやり考えていると、今日もまたあの二人を見た。車椅子の上で威張りくさっている男と、その車椅子を押している同年輩の男。老人と呼ぶにはまだ少し早いこの二人、実は友人同士なのだ。車椅子の男が口うるさくあれこれ指示するのを、押している男はニコニコしながら頷きつつ聞いている。妻や家族の誰かと病院にやって来るのではなく友達と来る。鳥の鳴き声の録音が二人の趣味だということも、車椅子の男の大声のおかげで僕も知ることができた。レコーダーが壊れたと言う車椅子に、オレんところに使ってないのが１台あるよ、と押し役が優しく静かに答えていた。病院が見せてくれた友情である。&lt;br /&gt;
&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div style="text-align: right; "&gt;イタリア自動車雑貨店　太田一義&lt;/div&gt;</description>
      <category>未分類</category>
      <pubDate>Fri, 16 Mar 2012 05:01:23 GMT</pubDate>
      <link>https://carclejp.live/UserBlogComment.aspx?UserID=2004&amp;TopicCD=1001&amp;ArticleNo=11</link>
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    <item>
      <title>2012.3 Part1</title>
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      </author>
      <description>&lt;p&gt;　1月28日、土曜日。夜10時過ぎにトリノ空港に到着したときには既に雪が降っていた。低気圧の悪戯ぽいのとは違ってなんか本格的に降り続きそうな予感。ここ数年、冬の寒さにめっきり弱くなった老体を慮れば、このツキのなさはまさに極めつけものだ。積もれば確実に仕事にも影響するし、何より日本向けの貨物の発送がスムーズにいくのかどうかそれが心配だ。空港から市内へ向かうクルマの中で到着早々、僕はこの先の日々を想像しては頭を抱えたい気分に陥った。大雪騒動の始まりだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　翌朝、日曜日。ベッドの中から外の様子に耳を澄ませる。雪の朝に特徴的なあの妙な静けさがないか、それを感じ取ろうと聴覚を研ぎ澄まし、目だけをグルッと意味なく動かしてみる。怪しい、積もってるな、と思ったとほぼ同時、ズッズッズッーズッとタイヤの派手な空転音が聞こえてきた。ベッドを抜け出し、パジャマの上に冬の部屋着の定番ユニクロのフリースをひっかけてテラスに出て外を見た。見事な銀世界！　そしてアパートの地下駐車場からのスロープの途中で、ガンメタのフィアット・クロマが1台立ち往生していた。空転音の主はこいつだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　結局、その日、日曜日は言うに及ばず翌月曜日も部屋に閉じ込められていた。雪は断続的に降ったり止んだりの状態だったけど、積もった雪が凍結してまったく融けない。日中でも外気温がマイナス10度を下回っているのだからそれも当然か。アパートの駐車場からの登りのスロープもアイスバーン状態でクルマも出せない。とにかく僕は到着してからのこの3日間、仕事らしきことは何一つできなかった。翌々日、水曜日の午前中にはイタ雑からスタッフがもう一人やってくることになっていた。無事到着できるのか、それも心配だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　2004年だったか2005年だったか、やはり２月にトリノで２、３日結構な量の雪が降ったことがあった。あの時は空港も閉鎖された。今回ほどではないにしろ市内の混乱はクルマに頼る生活ゆえそれ相応に大きなものだった。でも僕はそれを衝いてタイヤネットを装着、雪のアウトストラーダをマラネッロに向かった。７、８年前にはまだそういう無謀さというか、とにかくやってみる！みたいなある種の侠気じみたものが、この胸に確かに宿っていたのだ。今はない。自重できるようになったとか、円くなったとか、人はいろいろ言うけれど、実際はねぇ、違うんじゃないの、と内なるオレが言っている。人が細かな変節を重ねて一回転して別の顔を持つのに、７、８年というのは十分な時間だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　さて、雪は火曜日になって一服。相変わらず積もった雪は融けずにそのままの状態だったけど、とりあえず幹線道路の通行には支障がなくなった。水曜日午前中にはイタ雑スタッフ、若いS君も無事トリノに到着した。が、後から考えてみると、これは異常寒波の間隙を縫った奇跡の到着だった。トリノではその日の午後から再び降雪、今度のそれは前回よりも一層激しいものになり、トリノ空港発着のフライトは欠航便が相次ぐことになったからだ。雪はイタリア北部のみならず、ローマをはじめ中南部にまで広がり始めていた。&lt;/p&gt;
&lt;p style="text-align: right"&gt;&amp;hellip;&amp;hellip;&amp;hellip;&amp;hellip;つづく&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p style="text-align: right"&gt;イタリア自動車雑貨店　太田一義 &lt;br /&gt;
&amp;nbsp;&lt;/p&gt;</description>
      <category>未分類</category>
      <pubDate>Thu, 08 Mar 2012 01:31:50 GMT</pubDate>
      <link>https://carclejp.live/UserBlogComment.aspx?UserID=2004&amp;TopicCD=1001&amp;ArticleNo=10</link>
      <guid>2004_10</guid>
    </item>
    <item>
      <title>2012.2 Part2</title>
      <author>
      </author>
      <description>&lt;p&gt;　 トリノは約30年ぶりの大雪だった。そんな日に水道が出なくなった。凍結である。朝起きてそれに気づいたときに、すぐさまその日が日曜日であることに思い当った。最悪だ。日曜日にイタリアでこの事態に対応してくれるところなんて思いつきもしない。すくなくとも今日一日はこのままの状態で我慢するしかない。起きて欲しくないことというのは、そういう都合の悪い日にきっちり起こるものだ。クルマはお盆休みの期間中にぶつけるものだし、子供の急病は大みそかにやって来る。知り合いのベッペさんの家に連絡してみる。大袈裟に同情されたけど、やはり今日一日はどうしようもないという。明日、朝一番でフランコに行ってもらうから。ベッペさんの奥さんのその言葉を聞いてちょっとホッとして電話を切った。&lt;br /&gt;
　フランコさんはFIATのミラフィオーリ工場で働いている。それなのに朝一番で我が家兼イタ雑事務所にやって来られるのには理由がある。FIATが現在Cassaintegrazione、いわゆるレイオフにより操業調整を実施しているからだ。フランコさんは1月、わずか6日間しか出勤できなかったという。当然給与も満額支給されない。そもそも45歳になるフランコさんの給与は月1000ユーロに満たないのだ。１ヶ月きっちり働いても日本円で10万円程度のその給与が、工場の操業調整によって約６割程度に減額されてしまうらしい。だからヤミでアルバイトをする。フランコさんは知り合いの家の補修や、今回の我が家のような緊急事態に駆け付けては生活の糧を補填している。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　僕がベッペさんの紹介でフランコさんと知り合ったのは、イタ雑の事務所をトリノのチェントロから現在のMoncalieriに移した時だ。2010年の１月の終わりだった。スケルトン状態で引き渡される部屋を住める状態にするまでの一切をフランコさんにやってもらった。壁や天井の塗装、キッチン設備、照明器具、そしてブラインドの設置などもろもろの作業を、すべてフランコさんが格安で引き受けてくれた。当時MiToの生産ラインに就いていた彼は、その時もやはり操業調整でアルバイト生活を余儀なくされていた。４年前に奥さんを脳腫瘍で亡くし、残された7歳の娘との二人暮らしをやりくりするために、周囲に声をかけてはそういう種々の仕事を回してもらっていた。フランコは運がないのよ。ベッペさんの奥さんはよくそう言っては、ため息と一緒にタバコの煙りをダイニングテーブルの下に向かってフーッとやっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　そうだよね、運というのは確かにある。自分の意志や力ではどうにもならないことというのが確かにあって、それはもしかしたら人生で遭遇することの大半なのかもしれない。貧しい家庭で育ち、教育を受ける機会にも恵まれず16歳で電気工見習になり、その後職業をいくつか替えて、ようやく家庭を持ち子供も生まれた。それなのに&amp;hellip;&amp;hellip;。そう、これはイタリアじゃ掃いて捨てるほどある物語だ。物語の主人公はみな明日のためではなく、今日その時のために生きている。フランコさんの不運はそこに奥さんを亡くしたことで増幅される。働いて、働いて、働いて、家事の一切を担い、一人娘との間に生まれつつある微妙な距離の開きに頭を悩ませては、今日もどこかの家の壁に黙々とペンキを塗り込んでいく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　月曜日の朝、フランコさんは電動ドライバーと家庭用のドライヤー、それから太巻きの断熱テープを持ってやってきたらしい。「らしい」というのは、その朝、僕は早く出かけねばならず立ち会えなかったのだ。合鍵をベッペさんに預け、フランコさんはそれで我が家の鍵を開けて見事水道を復活させてくれた。しかし翌日、今度はボイラーが凍結して、お湯はもちろんのこと暖房までストップしてしまった。連日、零下15度以下に下がる気温に、トリノではいたるところで住宅設備がダウンしているらしかった。フランコさんは1時間ほどでボイラーも直し、これから娘を学校に迎えに行くんだよと言い置いて古いフィアット・プントで凍結した道をそろりそろりと走り去っていった。僕は寒さに怖じ気づきながらベランダから見送った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　フランコさん以外の誰もフランコさんにはなれない。あなたも僕もフランコさんの代わりをすることもできない。でも、たとえば、MiToを走らせる日本のどこかの路上で、そのクルマのどこかにフランコさんの痕跡があるんだと想像力を働かせてみることは、案外素敵なことかもしれない、とちょっぴり切なく僕は思ったりしている。イタリアからやって来るクルマもいろんなイタリアを背負ってる。&lt;/p&gt;
&lt;p style="text-align: right"&gt;イタリア自動車雑貨店　太田一義&lt;/p&gt;</description>
      <category>未分類</category>
      <pubDate>Thu, 23 Feb 2012 15:29:26 GMT</pubDate>
      <link>https://carclejp.live/UserBlogComment.aspx?UserID=2004&amp;TopicCD=1001&amp;ArticleNo=9</link>
      <guid>2004_9</guid>
    </item>
    <item>
      <title>2012.2 Part1</title>
      <author>
      </author>
      <description>&lt;p&gt;　 本格的に登山を経験したことはない。ハイキングレベルの軽登山を別にすれば、大学時代に友人と北アルプス常念岳を徳沢から登ったのが唯一の経験だ。登り始め１時間ほどの猛烈な苦しさが記憶に残っている。でも山は好きだ。トリノからはヨーロッパアルプスの数々の名峰が眺められる。天気の良い日に北に向かってクルマを走らせれば、半時間もしないうちに眼前にアルプスの山々が屏風のように広がる。その景色を見ると、今このときにも頂上を目指して一歩また一歩と歩を進めるクライマーがいるんだろうなと、そんな想像をしては目を凝らしている。&lt;br /&gt;
一口に登山といっても、本格的なそれは方法論の違いにより登り方も異なるようだ。かつて大学の山岳部などで主流の登山法は極地法と呼ばれた。それはベースキャンプを設営し、そこから先、さらにいくつかの前進キャンプを設けていく方法だ。選ばれた登頂隊員とは別の隊員たちによって、各前進キャンプに食糧、酸素ボンベ等の荷揚げが行われる。隊のメンバーのほとんどはこの黒衣役として登山隊に参加することになる。多くの人員と資金を要する、組織を挙げてのチャレンジだと言える。それと対照をなすのがアルパインスタイルと呼ばれる登り方だ。ベースキャンプこそありさえすれ、そこから先は登頂メンバーのみ、もし単独行なら自分ただ一人によるクライミングである。あらかじめ設けられた前進キャンプも、他のメンバーからの荷揚げ等のサポートもなし。テントなしのビバークも辞さず一気に登るわけだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　どちらがいい悪いは僕のような門外漢にはわからない。しかし、ただ字面だけを追えば、登山として、より純粋かつ困難なのはアルパインスタイルのようにも思える。人間のあらゆる生存条件が削り取られた8000メートル級の山に、単独、酸素ボンベなしで挑むというのは、肉体の限界を超える闘いであると同時に精神の人並外れた強靭さを試されることでもあるだろう。克服していかねばならない孤独の深さはどれほどだろうか。もちろん極地法を選んだとしても、程度の差こそあれ、それは同じなのかもしれない。でも、自分以外の誰かが同じ目的をもってそばにいるということが、酸素ボンベのあるなし以上に生死を分かつ分水嶺になることは多分間違いのないことだと思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　年が明けてすでに１ヶ月が経とうとしている。新年に一念発起、今まで属した組織を離れてひとり独立の道を選んだ人も少なくないだろう。それが意味することはただひとつ、今まで当たり前のように毎月25日になると振り込まれていた給与がなくなるということだ。酸素ボンベを運び上げてくれたり、前進キャンプを設営してくれたりというサポートのない、アルパインスタイルで進んでいくということだ。それも登山よりずっとずっと長い道程を。この道を選択するのに、その動機が「組織のしがらみを離れてひとりでやってみたい」じゃ弱いかもしれない。少なくとも最後の決め手は「ひとりでも平気」と思えるかどうかだと僕は思う。登山より困難なのは、頂上が見えないこと、しかもその頂上を自分の都合で低くしたりも出来てしまうことだ。今までの人間関係に馴れ合って適当にやって生きていけるのも、この世の中の紛れもない実相なのだから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　もう10年以上前、パリからトリノへ向かう飛行機の窓から、雪のアルプスに挑む3人のパーティのケシ粒のような姿を見たことがある。そこに感じたあの鋼のように張りつめた孤独の影を忘れることができない。美しいと思った。これ以上美しい光景があるだろうかと思った。山に挑む意味、いや、生きることの意味に繋がるなにものかが、クライマーたちのぎりぎりの自己表現としてそこに漂っているように思った。孤独を友とすることによって始まる人生がきっとある。一打目のハーケンに思いのすべてを託して雪煙に霞む頂上を目指す人も、25日の約束の金を恐る恐る捨てた人も、孤独を友として自分の一歩そしてまた一歩を刻みつけていかなければならないのだ。同じだ、と僕は思っている。&lt;/p&gt;
&lt;p style="text-align: right;"&gt;イタリア自動車雑貨店　太田一義&lt;/p&gt;</description>
      <category>未分類</category>
      <pubDate>Fri, 03 Feb 2012 15:28:36 GMT</pubDate>
      <link>https://carclejp.live/UserBlogComment.aspx?UserID=2004&amp;TopicCD=1001&amp;ArticleNo=8</link>
      <guid>2004_8</guid>
    </item>
    <item>
      <title>2012.1 Part2</title>
      <author>
      </author>
      <description>&lt;p&gt;　ピエモンテ州のワイン産地として名高いASTI。この地方の小さなコミュニティにVINCHIO（ヴィンキオ）という町がある。ちょうどイタ雑で販売中のワインの追加注文にそこを訪れた時、その日一緒だった知人のベッペさんが地区の公民館みたいな所でカレンダーを貰って来た。持ってけよ、と一部手渡されたそれを、隠居した老人たちのたまり場のようになっている古いバールの前でパラパラとめくってみる。モノクロの写真でVINCHIOの昔の様子を伝えている手作り感溢れるそのカレンダーは、既に老齢と言うに相応しい年齢にさしかかった自分にはどこか惹かれるところがあるものだった。&lt;br /&gt;
終戦後10年にも満たない1950年代。木綿の揃いのスモック姿の子供たち。幼稚園くらいの年齢のチビたちが集合写真に収まっている。笑ってる子はひとりもいない。みな緊張した顔をレンズに向けている。昔の日本もそうだったけど、写真を撮られるということにはちょっぴり緊張する儀式じみたところがあるものだった。普段触ったこともないカメラという機械への畏敬の思いがそうさせたのだろうか。それはともかく、カメラが捉えていたのはそれだけではなかった。その硬い表情の子供たちの背後に横たわるもの、そう、そこには当時の貧しい暮らしぶりまでがくっきりと滲み出ているのだった。街頭テレビだの、テレビのある家で見せてもらっただのと、日本でも当時の様子はそんなふうに語られるけど、イタリアでもそれは同じだったとベッペさんは懐かしそうに言った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　そんな時代を今自分が生きる恵まれた場所から眺めて、それを無邪気に「あの頃は良かった」と礼賛したりするのは、ぬるま湯に浸かって唸るいい気な鼻歌みたいなものだ。大人が望む子供らしさを子供が持っていたり、暮らしが無駄なく倹しかったりするのは、なにもその当時を生きた人々の精神性が僕らよりずっと高貴だったということではないだろう。百歩譲って彼らの心持ちが今を生きる僕らより慎ましいものだったとしても、その精神のありかたを決定付けたのは人々の選択ではなく時代の要請だったはずなのだ。そう生きるしかなかった、ということ。テレビもゲーム機もなかった子供たちには、路地裏や野山を駆け回ることのほかに何があっただろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　それでも、ただひとつ、これだけは確かだと思うことがある。それは夢を見る力の強さである。貧しかった時代の子供たちが抱いた未来への夢や希望は、満たされていない今を跳躍板とするからこそヒリヒリするほどに切実である。漠然と豊かな暮らしを思い描くというより、未来はもっと具体的なカタチを持っている。テレビで見たアメリカのドラマの中の別世界の日常が、それをどんどん後押しした。こうなればいいなぁ、ということが次から次に現れてくる。その時その時に、自分の手にないものを介在して具体化する夢。それが積み重なって胸に満ちるのは、今日よりは明日、という思いだったに違いない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　僕らが失ったものがあるとすれば、いや、僕らに見つけにくくなったものがあるとすれば、それは日々この身に迫ってくる欠乏感のようなものである。過不足ない今に慣れきってそれを甘受している限り、未来を自らの手によって引き寄せる試みなんて疲れるだけのことであったり、無謀な冒険だったりするのだ。なぜならそれはすぐれてひとつの闘いに違いないから。見も知らぬ誰かの苦闘の物語には感動できる「いい人」ではあっても、自分自身は決して闘いの態勢に入ることはない。人それぞれ、なんて都合のいい念仏を唱えて、波風立たぬ平穏な日常の継続を望んでいる。すべて成熟の名のもとに。それは、きっとそれは、今の自分に違いない。きっと、きっとそれは、組織体全体としてのホンダでありソニーであるに違いない。今日よりは明日、と噛みしめて投げる石をこの手にもう一度持ってみたいと、自分に残された時間をわけもなく推計しながら、僕は2012年の川岸に立っている。&lt;/p&gt;
&lt;p style="text-align: right;"&gt;イタリア自動車雑貨店　太田一義&lt;/p&gt;</description>
      <category>未分類</category>
      <pubDate>Tue, 17 Jan 2012 15:18:55 GMT</pubDate>
      <link>https://carclejp.live/UserBlogComment.aspx?UserID=2004&amp;TopicCD=1001&amp;ArticleNo=7</link>
      <guid>2004_7</guid>
    </item>
    <item>
      <title>2012.1 Part1</title>
      <author>
      </author>
      <description>&lt;p&gt;　2011年は否応なく東日本大震災とともに記憶される年になるだろう。あの日から今日12月31日までの290日間、それでも私たちはひとりひとりの「一歩前」を手探りしつつ、不完全ながらも今日を明日へと繋げてくることができた。僕は今日それを祝したいと思う。&lt;br /&gt;
個人的に今年を振り返ると、震災後、大きな病気をした。壁はよじ登れ、山は越えて行けと、何事によらず困難から逃げずに自分の力で真正面からぶつかっていくべきだと信じてきた自分自身にとって、それは自分じゃどうにもできない絶望的な無力感に苛まれる出来事だった。「一歩前」は遥かに遠く、病室から見える西新宿の高層ビルの窓を数える日が夏の盛りまで続いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　2012年がどんな年になるのか、それは僕にはまったく予想できない。今日2011年12月31日で時間の流れを区切って、「さあ、ご破算で願いましては」と明日から心機一転、という気分にもなぜだかなれない。ただ、今回経験した290日間のように、そして真っ白な壁の病室の日々のように、たとえささやかであっても今日を明日に繋げる気持だけは持ち続けていたいと思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　今年１年、店頭へWEBページへと、たくさんの皆様のご来店ありがとうございました。途切れることなく続くその毎日が、私たちイタ雑スタッフの希望の源泉でした。多くのことを学びました。ありがとうございました。&lt;/p&gt;
&lt;p style="text-align: right;"&gt;イタリア自動車雑貨店　太田一義&lt;/p&gt;</description>
      <category>未分類</category>
      <pubDate>Sat, 31 Dec 2011 15:32:52 GMT</pubDate>
      <link>https://carclejp.live/UserBlogComment.aspx?UserID=2004&amp;TopicCD=1001&amp;ArticleNo=6</link>
      <guid>2004_6</guid>
    </item>
    <item>
      <title>2011.11 Part2</title>
      <author>
      </author>
      <description>&amp;nbsp;　一時期、革の鞄に凝っていた。毎日クルマで店に来ているわけだから、鞄を手に提げて歩くなんていうのは一日に100歩あるかないかだけど、生来の袋物好きにとって鞄はどうしても気になるもののひとつなのだ。一点集中の収集癖はこの革の鞄にも当然及び、これまで使いきれないほどの数を買った。イタリア自動車雑貨店を始めて４、５年目くらいが鞄集めのピークだったろうか。
&lt;div&gt;　鞄と言って思い出す店はトリノの『Florence』だ。トリノ随一の目抜き通りVia Romaから一本東側の通りの角に、２階建てのその店はある。初めてトリノを訪れた90年代の中頃は、古い歴史を持った家族経営の店がまだ市内の中心部にも数多く見ることができた。服地の『Galtrucco』、帽子の『Foresto』、その他、店名も掲げていない自動車用品店等々、市内一等地のVia Roma周辺にはそうした創業100年レベルの独立店舗が点在していた。鞄の『Florence』もその一つで、店内にある商品はすべてFlorenceのロゴの入ったオリジナル品、製造・直売のいわば皮革職人の、トリノには珍しい店である。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　東南の角地に位置する『Florence』は外壁の二方に大きなディスプレイウィンドウがあり、そこで展開される商品陳列の美しさが特筆ものだ。２週間に一度くらいの間隔で変わるディスプレイには毎回色のテーマがあり、すべてブラックの皮革製品の陳列の次はすべてボルドーと、伝統的な木材を多用した古い構えの店にもかかわらず、ディスプレイウィンドウはいつもモダンで洗練されている。そこで初めて買ったのは航空券がそのまま入る大型のパスポートケース。カーフスキンの柔らかさと、Florence Torinoと型押しされたロゴに薫る「外国」が無性に嬉しかった。それから間もなくそこでも鞄を買い始めた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　『Florence』ではイタリアの古い店がおおかたそうであるように、客が勝手に商品を手にとってあれこれ吟味するようなことはできない。すべて店員に棚から取ってもらってそこで説明を聞き、それから自分の手にとって触れてみるという、特に初めての客にはハードルの高い昔ながらのモノの売り方を堅持している。鞄を手に提げて鏡を見たり、中の仕切りが機能的かどうか確かめたりと、そういうことを店員が常に横にいるところでするのはなかなかのプレッシャーである。それも店員はきちんとスーツを着た高齢のご婦人なのだ。チンピラ風情の僕などは、通い始めの頃、居心地の悪さとの戦いでほとほと疲れてしまったものだ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　それでもウィンドウのディスプレイの見事さにつられて、ついつい店内に吸い込まれるようにして入ってしまう。いつも高齢の店員が３人くらいいて、それに反して客がいることはあまりなかった。そうこうするうちに、ここでの買い物のコツをつかんだ。つまり、ディスプレイウィンドウが肝なのだ。そこでじっくり商品を見て、その中に欲しいものがあれば店に入っていけばよい。ウィンドウにある○○を見せてください、と始めれば話が早く、高齢のスーツ姿のご婦人店員も嬉しそうだった。何かいいものがないかと店内をブラブラするような買い物の仕方は、ここでは相応しくない。ウィンドウのディスプレイに力を入れているのも、これを見に入って来てくれという、彼らの強いアピールなのだろう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　記憶を手繰り寄せて今思い出してみると、たぶん6つか7つ『Florence』で鞄を買ったはずだ。財布やコインケースなどの小物も買った。そうしてようやく店の人たちとも世間話をあれこれ交わせるようになった頃、僕の鞄モードが下火になり、『Florence』に行くこともめっきり少なくなってしまった。店の前を通るたびに、あのいつも美しいディスプレイにちらっと目をやってはいたけれど、じゅうぶんすぎるほどに年をとった僕は、革の鞄の重さを持て余してしまうようになっていた。年をとって何かを失うというのはこういうことなのだ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　そして、この10月。久しぶりに『Florence』に向かった。店はなかった。道を間違えたのかと思ったけど、そうではなかった。まさに忽然と、という感じで店はなくなっていた。かわりにそこには全面ガラス貼りの若者向けのセレクトショップが、まばゆい光を放っている。確か僕が最後に見た9月はもう閉店間際の残り少ない日々だったのだろう。敷居が高くて入りにくく、気軽に商品を手にとってみることも出来ない店。売ってるものはオリジナルブランドだけの皮革製品、そしてちょっと慇懃無礼でとっつきにくい、妙に姿勢の良い高齢の店員。もう、あんたたちの出る幕じゃないよ、と新しい時代の風に教えられたんだろうか。日本に比べればネットショッピングの浸透が遥かに遅れているイタリアだけど、それでもファストファッションの店は増え、その対極のブランドショップも賑わいを見せる。そんな中でイタリアらしいと言えばあまりにイタリアらしい、『Florence』のようなちょっと気難しい独立店舗が、ひとつ、ふたつと消えてゆく。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　そう、時代は確かに動いているのだ。経済危機だろうとなんだろうと、どんどん前に進んでいく。客っぷりの良さを試される店も、独特の買い物の仕方を強いる店も、一見の客が神様でない店も、そんなものは淘汰されていって当然なのだ、と時代の風が吹く。ヨドバシカメラで店員を前に大声で威張りくさってクレームをつけていた、そんな奴の頬に優しい風が吹く。大声を出さなきゃならない人生の問題はほかにあるのにさ。『Florence』は静かに消えた。ホームページなど持たず、ウェブの世界には背を向けたまま。「大人になったら『Florence』で鞄を買うんだよ」「そうなんだ、いいねぇ」。あの丹精込めたウィンドウに鼻先をつけるように夢を見る子供はもういなかったのか。四谷じゃだいぶあきれられてたみたいだけど、もっと鞄を買えば良かったよ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div style="text-align: right; "&gt;イタリア自動車雑貨店&lt;br /&gt;
太田一義&lt;/div&gt;</description>
      <category>未分類</category>
      <pubDate>Wed, 16 Nov 2011 03:46:10 GMT</pubDate>
      <link>https://carclejp.live/UserBlogComment.aspx?UserID=2004&amp;TopicCD=1001&amp;ArticleNo=4</link>
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      <title>2011.11 Part1</title>
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      <description>&amp;nbsp;　 第72回菊花賞。満員の京都競馬場を3歳馬オルフェーブルが、2着に2馬身半差の圧勝で駆け抜けた――、ってスポーツ新聞みたいだな、これじゃ。そういえば競馬場には長いこと足を向けていない。この菊花賞もテレビで見た。人いきれと馬に託した剥きだしの欲望の重さでズブズブと沈み込みそうな、競馬場の決して軽やかでないあの空気感は今も残っているのだろうか。金網に指を絡めて、就職なんてするかよ、と競馬場ではつかの間アナーキーだった若かりし頃。僕はテレビの前でぼんやりそんなことを思い出していた。それにしても馬は、応援よろしくお願いします、なんて言わないからいい。
&lt;div&gt;　1977年の有馬記念。古い話になるけれど、暮れのその日、場外馬券売場で来場者数カウントのバイトをしていた。卒論の資料として買い揃えなければならない書籍が信じられないほどに高くて、スポットのバイトをいくつか見つけて稼がなければならなかった。福武書店の添削のバイトは、「こんな乱雑な答案を恥じないなら、君は勉強しても無駄だ」とコメント欄に書いてすぐクビになった。受講者がやる気を失くすそうだ。やる気がないから惨憺たる答案だろうに&amp;hellip;&amp;hellip;。さて、有馬記念はテンポイントとトウショウボーイの一騎打ちだった。結果はテンポイントが勝った。その瞬間の場外馬券場売場のどよめきとともに、額に流星を持ったテンポイントの名が僕の記憶に刻み込まれた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　テンポイント。オレの馬はテンポイントだ、あるいは、オレはテンポイントだ、とそう口にしてみるとよくわかる。いい名前なのだ。それ以上足すものも引くものもなくて潔い名前だ。１０ポイントの活字で新聞に載るような馬になれ、との思いが込められたという。次にその名前が再び目の前に迫ってきたのは翌1978年の1月。今年の菊花賞でオルフェーブルが勝った同じ京都競馬場の雪景色の中、テンポイントはレース途中で骨折した。それからしばらくして流星は天に駆け昇って消えていった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　寺山修司は、もし朝が来たら、と『さらば、テンポイント』を書いた。――もし朝が来たら、印刷工の少年は10ポイント活字で闘志の二字をひろうつもりだった。それをいつもポケットに入れて、弱い自分の励ましにするために。（中略）もし朝が来たら、老人は養老院を出て、もう一度自分の仕事を探しにいくつもりだった。「苦しみは変わらない、変わるのは希望だけだ」ということばのために――。それは地に雨が沁み入るような一編のレクイエムだった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　闘志や希望などという手垢にまみれたストックワードを、他に置き換えることのできない本源的な意味のそれとして、僕は寺山修司を読み、テンポイントの死を悼んだ。時代のセンチメンタリズムだと言ってしまえば確かにそうだけど、少なくともそこには一つの勝利の背後に連なる無数の敗北への優しい視線があった。テンポイントもまた敗北の列に加わった。僕が競馬場で学んだことはつまりこういうことだ。負けをうやむやにしないということ。すっからかんになるまで賭けて賭けて賭けまくれ。電車賃を残すな、ということだ。それが出来たかどうかは甚だ怪しいけれど、将来を手探りする若さには競馬場が「学校」だったことは確かだ。一票を投じるということは大切なものを差し出すということ。オルフェーブル快走の菊花賞を無傷で見ていた自分が言うのも変だけど。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div style="text-align: right; "&gt;イタリア自動車雑貨店&lt;br /&gt;
太田一義&lt;/div&gt;</description>
      <category>未分類</category>
      <pubDate>Mon, 31 Oct 2011 11:25:19 GMT</pubDate>
      <link>https://carclejp.live/UserBlogComment.aspx?UserID=2004&amp;TopicCD=1001&amp;ArticleNo=3</link>
      <guid>2004_3</guid>
    </item>
    <item>
      <title>2011.10 Part2</title>
      <author>
      </author>
      <description>&amp;nbsp;まだ『ITALIA NOW』をせっせと書いていた頃を思い出して、久しぶりに原稿をしまってあるPCのフォルダを覗いてみた。そこでは40数話の拙い物語が惰眠を貪っていて、思うところあって書かなくなったその「思うところ」というのを再び反芻したり、言い訳めいた理由を自分に再確認したりと、要するにグチャグチャやっていた。そのフォルダの中にもうひとつフォルダがあった。『予定稿』と名前が付けられている。はて？と思い開いてみると、ワードのファイルが10近くある。書き出したのはいいが途中で放り出した原稿だ。
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　それをひとつひとつ読んでみた。中にはほとんど出来上がっているような原稿もある。内容なんて例によって取るに足らない瑣末な事柄のオンパレードだ。けれど、書きかけの原稿はどれも妙に生々しい。完成してアップした原稿より本音がストレートに出ているように思える。自分というフィルタを通ったものがありのままの真実であるなんてことは幻想にさえなりえないけど、それが真実にどれだけ近いかどうかはともかくとしても、書くということは歩くことに似る。必然的に自分と向き合う舞台を用意するから。観客は常に自分で、その舞台に冷ややかな視線を投げかけている。書きかけて放り出した原稿には、何を言っても嘘めいてしまうその苦しさから逃避した自分の、手足のバタバタした感じがそのまま残っていた。&lt;/div&gt;
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&lt;div&gt;　と、そんな我が身からこぼれ落ちた破片のような文章を読んでいて、最近頻繁に訪ねてくるようになった小学校時代の友人のことを考えていた。彼は小児がんの息子を数年前に亡くしていた。10数年に及ぶ闘病生活だったという。息子を失った後、奥さんと離婚。今は年老いた母親とふたりで暮らしている。それを聞いて、ふと立ちあがってくる光景があった。その昔、テレビ映画『コンバット』に触発された少年たちは、戦場に見立てた近場の空き地で、日々戦いに明け暮れていた。どこかの土建屋のヘルメットを被り、棒きれのライフルをリトルジョン上等兵みたいに構えていた少年の頃の彼を覚えている。お互い年賀状のやり取りさえ途絶えた空白の数十年を間に挟んでしまったけれど、再会して時が経つにつれて、僕の前にいるのはまぎれもなくあの頃のリトルジョン上等兵だった。&lt;/div&gt;
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&lt;div&gt;　ヨーロッパをバックパッカーみたいな旅で回ったんだよ、とリトルジョンは会うたびに若い頃の体験を、それも何度となく話した。バックパッカーみたいな、バックパッカーみたいな、バックパッカーみたいな、と。そうか、バックパッカーみたいな旅をしたんだ、そんな旅をしたんだ、と僕はそのたびに相槌を打った。そのバックパッカーみたいな旅を最後に、そこから始まったリトルジョンの本当の戦場での戦いに寄り添う言葉を、それをどうにか見つけたかったけど、結局僕は何も口にすることができなかった。ただ、そうか、バックパッカーみたいな旅をしたんだ、と繰り返すだけで――。書きかけて放り出してしまった原稿と同じように、その時も手足だけが落ち着きなくバタバタしているような感じがしてもどかしかった。&lt;/div&gt;
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&lt;div&gt;　『予定稿』のフォルダの中、死屍累々のファイルには何も手を加えず結局そのまま閉じた。かつて若かった頃、駅のホームの売店で買った牛乳をひと息に飲んで結んだ決意とか、8000回転を目指して生きる意味を揺さぶるエンジンの咆哮とか、言葉に出来なかったものはだからそのままそこに眠ったままだ。そう、そして今しも僕は思うのだ。残りの人生、気の利いたひと言でも書き残せるようになれるだろうか。今見たものの中の永遠を明日のための言葉へと繋げることができるだろうか。そして、少年の日の空き地から遠く離れた黄昏の戦場をライフルを肩に、今、年老いて歩くリトルジョン上等兵に、彼に届く言葉を探し出せるだろうか。&lt;/div&gt;
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&lt;div style="text-align: right; "&gt;イタリア自動車雑貨店&lt;/div&gt;
&lt;div style="text-align: right; "&gt;太田一義&lt;/div&gt;</description>
      <category>未分類</category>
      <pubDate>Tue, 25 Oct 2011 06:18:33 GMT</pubDate>
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